イバイチの奥の細道漫遊紀行

[おくのほそ道の俳句(1)]

H27-5-25作成


 芭蕉が「おくのほそ道」に記した俳句は、曽良などの句を含めて六十一句ある。その中から主要な四十四句を行程に従って写真と共に取り上げYouTubeでアップしようと思う。

 全体を5区分に分けてアップすることにした。最初は「千住」での矢立初めの句から白河の関を越えるまでの次に記す十句である。

  千住    1  行く春や 鳥啼き魚の 目は泪

  日光    2  あらたふと 青葉わかばの 日の光

         3  しばらくは 瀧にこもるや 夏(げ)の初(はじめ)

         4  剃捨て 黒髪山に 衣更(ころもがえ)  曾良

  那須野   5  かさねとは 八重撫子の 名成べし    曾良

  黒羽    6  夏山に 足駄を拝む 首途哉(かどでかな)

  雲巌寺   7  木啄も 庵はやぶらず 夏木立

  殺生石   8  野を横に 馬牽むけよ ほとヽぎす

  遊行柳   9  田一枚 植ゑて立去る 柳かな

  白川の関 10  卯の花を かざしに関の 晴着かな     曾良

 江戸深川に住んでいた芭蕉は家を人に譲って元禄2年(1689)3月27日の早朝、舟で大川(隅田川)を遡り千住に向かった。千住は奥州街道の第1番の宿駅である。此処で見送りの門人と別れ、曽良と二人で「おくのほそ道」の旅に出立した。

 矢立ては筆と墨壷を組み合わせた携帯用の筆記用具である。矢立初めの句とは旅に出て最初の句という意味である。

 芭蕉が出立したのは当時の暦(陰暦)で3月27日で、現在の陽暦に直すと5月16日のさわやかな気候の頃である。その後「黒羽」で13泊するなどして4月20日(陽暦の6月7日)に白河の関を越えた。「千住」を出発して22日目のことである。

 日光で曽良が詠んだとされる黒髪山は日光男体山のことで、歌枕に男体山を黒髪山と詠んだものがあり、それに掛けて曽良が剃髪していることを強調した句である。

 黒羽では城代家老とその舎弟が蕉門の俳人で暖かく迎えられた。近くには山伏が修行した修験光明寺があり(今は廃寺)、長旅の無事を願い行者堂の足駄を拝んだ時の句が記されている。他にも那須与一が扇の的を射る時に祈念した那須神社に参拝し、九尾の狐が絶世の美女に化け宮中に取り入ったが正体を見破られて那須野ヶ原で殺され、その怨念が殺生石になったという伝説の「玉藻の前」を祀った玉藻稲荷神社を訪れたり、芭蕉の禅の師匠である仏頂和尚が修行を積んだ雲巌寺を訪れたりして思わぬ日数を過ごしてしまった。

 黒羽から殺生石に行く時、馬と案内人を付けて貰った。案内人に別れる時に所望されて詠んだ句が記されている。 

 遊行柳は那須町芦野にあり、西行法師が歌に詠み、謡曲「遊行柳」が創られた歌枕の地である。

(以下次号)