4.倉敷
広島から新幹線で新倉敷に行く。そこから普通列車で倉敷に着いたのは13時過ぎだった。バスで大原美術館前まで行き、倉敷美観地区近くにあるドーミーイン倉敷というホテルに荷物を置いた。昨年冬と春に東北に行ったとき、同じ系列のドーミーイン弘前に宿泊して設備や対応が良かったので、今回も同系列のこのホテルに泊まることにしたのである。弘前も倉敷も温泉大浴場があり、部屋も狭苦しくない。また夜食に時間限定で無料のラーメンがでる。朝食のバイキングも品数が多い。
早速、大原美術館に行く。今回の旅行では日本最初の洋画、日本画の近代絵画美術館として知られたこの美術館の作品を鑑賞するのが第一の目的である。この美術館の創立は1930年(昭和5年)である。倉敷紡績の経営者である大原孫三郎が創設した。
そして絵画の収集は同じ岡山の出身で孫三郎の1才年下の児島虎次郎の尽力によるところが大きい。児島虎次郎は東京美術学校在学中に勧業博覧会美術展で出品した絵画が一等賞になり宮内省買上げになった。かねてから虎次郎を援助していた孫三郎はそれを喜び、更に絵の勉強をするためにベルギーに送り出した。虎次郎は自分の絵の勉強をする傍ら日本の画家たちのために名品を集めて持ち帰りたいと思い、孫三郎の賛同を得てエル・グレコの「受胎告知」やモネの「睡蓮」、ゴーギャンの「かぐわしき大地」などの名品を購入した。
しかし虎次郎は1929年(昭和4年)47才で急逝してしまいその霊を慰めるために孫三郎が翌年に設立したのが大原美術館である。その後、孫三郎の後継者大原総一郎も積極的にコレクションの拡充を図って近代西洋絵画ばかりでなく近代日本の絵画、民芸作家の作品も含めて収集し現在の規模になった。美術館の入館料は1800円である。パスポートとして本館、工芸・東洋館、分館、児島虎次郎記念館、有隣荘の5カ所で入館印を押すようになっている。通常は1300円だが有隣荘も見られるので500円アップらしい(有隣荘だけの入場料は1000円)。
最初に、その有隣荘に行った。ここは大原家旧別邸で、大原美術館本館と倉敷川を挟んだ対岸にある。屋根瓦は中国の孔子廟を模したという独特の色合いである。通常は非公開だが春秋2回期間を決めて展覧会を行い特別公開している。丁度、田窪恭治という人の「倉敷の風景に」という作品が展示されていた。因みに「有隣」は論語の「徳不孤必有隣(徳は孤ならず必ず隣あり)」から採っている。(写真は有隣荘と田窪恭治のパンフレット)
美術館本館に行く。入口は創建当時のギリシャ風の造りのままである。向かって左側にロダンの「説教する聖ヨハネ」の像、右側に同じくロダンの「カレーの市民」像がある。
最初の部屋に児島虎次郎が始めて買付けたというアマン・ジャンの「髪」があった。何番目かの部屋に印象派のモネ、ルノワール、ゴーギャン、セザンヌ、セガンティーニなどの世に知られた作品が、ごく当たり前のように展示されていた。以前イギリスのナショナルギャラリーに行ったとき、同じように印象派の絵がひと部屋に集められ展示されていたのを思い出し、暫らく足を止め見入ってしまった。シャガール。モディリアーニの絵も素晴らしく、モローの「雅歌」という作品は小品で水彩なのだが、立ち去り難い魅力あふれる作品だった。
最後の部屋には照明を落としたなかにグレコの「受胎告知」だけが展示されていた。何時までも見飽き無い作品で、幸い他の観客がおらず備え付けの椅子に座ってじっくりと鑑賞出来た。スペインのプラド美術館にはグレコの絵が多く展示されていたが、ここの美術館のように一点だけゆっくりと見ていられる雰囲気では無かった。東京などの美術館と違って他に鑑賞する人も少なく、大都市から離れた場所だからこそ得られる至福のひとときだった。
続いて工芸・東洋館に入る。工芸館は浜田庄司室、バーナード・リーチ室、富本憲吉室、河井寛次郎室、棟方志功室、芹沢?介室に分かれている。茨城県には陶芸美術館があり、また隣の栃木県には益子参考館があるので、浜田庄司から河井寛次郎までの陶芸作品はお馴染である。棟方志功の板絵は茨城県近代美術館で2回ほど展示したのを見ており、また昨年冬、青森の棟方志功記念館を訪問したことなどもあって、これもお馴染の十大弟子像などの作品が並んでいた。工芸・東洋館の中庭に有隣荘で作品を展示した田窪恭治のコールテン鋼という材料と鋳鉄で造った鉄板を並べた「La
chapelle de Vigor de Mieux-KURASIKI version」という作品が展示されていたが何か良く分からなかった。(写真は田窪恭治の作品)
美術館本館と分館の間に「新渓園」という建物と庭園がある。大原家の別荘だったものが倉敷市に寄付されたもので、敬倹堂という名の大広間から庭園を眺め、美術鑑賞で疲れた体を休めるのに良い場所である。庭園の中にも東屋があり休めるようになっている。
分館の入口にはヘンリー・ムーアの彫刻が置かれ、分館内には日本の近代洋画から現在活躍している作家たちの作品が並んでいる。梅原龍三郎、安井曾太郎などの大家の作品は勿論だが、それ以外の茨城県近代美術館にアトリエを復元してある中村彝(つね)の「頭蓋骨を持てる自画像」や20才で夭折した関根正二の「信仰の悲しみ」(重要文化財指定)、佐伯祐三の「広告”ヴェルダン”」、松本竣介の「都会」などの作品には強烈な印象を受けた。(写真の右奥がムーアの作品)
美術館を出て、倉敷美観地区に出る。結婚式の式場に急ぐのか、終わったばかりかわからないが花嫁と花婿が歩いていた。倉敷川には「くらしき川舟流し」という川面から美観地区を眺められる舟が行き交い一人300円で乗れる。道路の縁にはござを敷いた露店が何軒か店を出していた。
倉敷川に沿って白壁、なまこ壁の屋敷や倉を利用した商店や飲食店が建ち並んでいて、この一帯は重要伝統的建築群保存地区に指定されている。その中でも旧倉敷町役場で現在は観光案内所になっている倉敷館や江戸時代の米蔵を使用した倉敷考古館などが目を引く。(写真は倉敷館、常夜燈の奥の倉敷考古館、なまこ壁の店)
裏通りに行くと飛騨高山の三之町の様な小さな商家が建ち並んでいる。更に奥に入ると倉敷紡績の旧工場があった倉敷アイビースクエアがあり、ホテルやレストラン、多目的ホールなどの施設が置かれているが、その一画に児島虎次郎記念館がある。(写真は裏通りの商家と倉敷アイビースクエア入口)
児島虎次郎は前述したように勧業博覧会美術展で1等賞を得たことから、大原孫三郎の援助を得て明治42年(1909)にベルギーのゲント美術アカデミーに入校し、3年後に同校を首席で卒業した。その後大正8年(1919)に2度目のヨーロッパ留学をしてグランバレー・サロン展覧会などに出品し、出品作品がフランス政府買い上げになり、フランス画壇のサロン・ソシエテ・ナショナルの正会員に推されるなど活躍した。
そして留学など出来ない一般の日本の画家たちのために名品を集めて持ち帰りたいという思いから孫三郎に相談して25点の絵画を持ち帰ったのが大原美術館の始まりである。その後大正11年(1922)に3度目の訪欧をして更に多くの名画を購入した。帰国後、明治神宮の絵画館に納める「対露宣戦御前会議」の壁画を描く依頼を受け、制作途中急逝してしまうのである。今年の春(平成23年(2011))大原美術館で「生誕130年児島虎次郎展」を開催し油彩画130点を展示した。
児島虎次郎記念館の絵画は国内で制作したものとヨーロッパで制作したものと半々ずつぐらい展示してあった。明るい色彩の作品で大作が多かった。幼い少女を描いた「睡れる幼きモデル」、バイオリンを持った女性を描いた「寓憩」などが印象に残った。日本では日展や院展に出展して賞を貰わないとあまり知られないが、虎次郎も西洋絵画の買い付けの方で有名になった。しかし、展示された絵を見ると素晴らしい作品が多いと感じた。またヨーロッパへの行き帰りにエジプトに立寄り収集したエジプト古美術も展示してある。
児島虎次郎記念館を出たのはもう夕刻だった。沢山の美術品を見て疲れ果てホテルに戻ってぐっすり眠った。
(以下次号)
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