イバイチの幕末の水戸(4)

[ 天狗党の乱(元治甲子の変)その3 ]

H23-9-15作成 

2−7 那珂湊戦争と頼徳の切腹

 門閥派によって水戸への入城を妨げられた水戸藩主徳川慶篤(よしあつ)の名代松平頼徳(よりのり)以下の大発勢は8月10から8月12日まで台町の薬王院及びその付近に滞在したが、途中から参加する者が多く、3,000名の大人数に膨れ上がっており、また戦いになるとは予想もしていなかったため武器は少なく、また平時の行列の用意しかしていなかったためたちまち食糧が逼迫した。

 頼徳は随行した水戸藩家老榊原新左衛門をはじめ主だった者と協議をしたが、藩主徳川慶篤の意向に従わず発砲したのは許しがたい行為だが軍備の面では水戸城を支配している門閥派が圧倒的に有利であり、頼徳も平和的に目的を達したいとの意向だったのでとりあえず水戸から2里半ほどの距離にある水戸藩随一の港町である那珂湊に行き、打開の道を探ることになった。

 一行は大洗街道を進み塩ヶ崎村(水戸市塩崎町)長福寺に入った。長福寺はその後幕府追討軍800余名の本陣になったり、降伏した大発勢1000余人が3日ばかり留め置かれたりした場所でもある。(写真は長福寺山門、本坊と案内板)

 松平頼徳と大発勢はその近くにある那珂川縁の小泉渡船場から川を渡り那珂湊に入ろうとしたが門閥派は舟を対岸に集め大砲を撃ち掛けてきたので渡河出来ず、そのまま街道を進み那珂川に注ぐ涸沼川を渡って磯浜(大洗町)に進むことにした。涸沼川の平戸渡船場でも舟は対岸に集められて銃を撃ち掛けられたが門閥派の兵は少数であり、涸沼川の川幅も那珂川より狭いので3地点に分かれて攻撃し舟を取り戻して渡河できた。

 大洗に入った頼徳と大発勢は、斉昭が頻繁に出没する異国船に対する警備強化ために設けた磯浜海防陣屋を占拠しそこを本営とした。磯浜海防陣屋はその後幕軍の攻撃により焼かれ、陣屋跡はそのまま埋もれて所在地が不明だったが、平成14年に市民研究グループの努力で発見され整備が始まった。現地は大洗町役場後方の「おでぃば山(お台場山)」と呼ばれる「日下ケ塚(ひさげづか)古墳」がある高台で土壇の遺構や土塁が残っており、瓦などが発掘されたそうである。
   (写真は日下ケ塚古墳の碑と磯浜海防陣屋跡)

 今、そこを訪れるには人が一人通れる細い道しか無く、また案内標識も無いので土地の人に尋ねながら行くしかない。丁度訪れた時、付近の初老の夫婦が来ており、昔はこの下にある道路まで海だったとか、竹で囲ったところが井戸の跡だとか古墳の土を使用して土壇を造ったので古墳が大分破壊されたとかの話を聞いた。(写真は井戸の跡)

 ここはまだ整備途中であり、あと暫らくすれば一般の人も来られるようになるだろうということだった。東日本大震災の1カ月後に訪れたのだが、町役場には4.7メートルの津波が来た跡が残っており、役場の前にある文化センターはまだ閉鎖されたままである。北海道苫小牧に行くサンフラワー号のフェリポートもいつから再開できるか不明である。(写真は陣屋跡からの太平洋と大洗港展望)

 那珂川に涸沼川が注ぎ、那珂湊の対岸に位置する地点に祝町願入寺(大洗町)がある。藤田小四郎の筑波勢が旗揚げした時、藩の混乱を憂う弘道館の学生たち(諸生)が多数集まって筑波勢鎮撫の決議をし、それを契機にして門閥派が力を獲得した経緯があった場所である。磯浜海防陣屋を本営とした大発勢は、那珂川以南の最後の砦として願入寺に立てこもった門閥派の藩兵を攻めてそれを破ったがその兵火によって寺は焼失してしまった。(写真は震災で通行禁止になった山門と本坊)

 一方筑波山に居た藤田小四郎などの筑波勢は、門閥派と大発勢の争いを知り水戸を制圧している市川三左衛門をはじめとする門閥派を退ける好機として磯浜に来援した。頼徳らは迷惑に思ったが門閥派が守る那珂湊を攻めるには是非必要な戦力なので協力して那珂湊に攻め入ることにし、8月16日未明、折からの雨に乗じてあらかじめ決めていた4か所の渡河地点から霧の中を次々に上陸した。(写真は頼徳が那珂湊で本陣とした文武館跡)

 那珂湊には石巻や酒田などの港と同じく日和山と呼ばれる広い台地があるがそこには前藩主斉昭が設置させた反射炉や湊郷校である文武館及び光圀によって建てられ港御殿といわれた?賓閣(いひんかく)が並んでおり門閥派の拠点になっていた。門閥派はそこの広場に大砲を据えて砲撃を繰り返し激しい戦いになった。しかし筑波勢の奮戦などによって次第に門閥派の敗色は濃厚になり、ついに敗走した。(写真は現在湊公園になっている日和山の?賓閣付近の碑とそこから見た那珂湊漁港方面及び反射炉跡)

 逃げるにあたって門閥派は火をかけたため、?賓閣は全焼してしまった。また?賓閣の近くにあり門閥派が本陣とした華蔵院(けぞういん)という大きな寺も焼け、さらに市街地にも燃え広がった。戦いは筑波勢、大発勢の勝利に終わり門閥派は水戸に逃げ帰り、頼徳は湊郷校である文武館に入った。
     (写真は湊公園の?賓閣跡の碑、華蔵院山門と本坊)

 那珂湊を掌握した頼徳は8月20日水戸城郊外那珂川近くで、大砲の試射場があった神勢館(水戸市城東)に移動し、なおも市川等の門閥派と交渉して水戸城に入ろうとしたが成功せず、門閥派は攻撃を仕掛けてきた。門閥派の要請によって幕府の追討軍も共に頼徳らを攻撃してきたので止むなく応戦したが、追討軍の人数が多く食糧も不足してきたので8月28日まで滞陣したが再び那珂湊に引き返した。
   (写真は神勢館跡地の碑)
 9月に入り、幕府追討軍総括の田沼玄番頭意尊(げんばのかみおきたか)は弘道館に入った。この頃は既に幕府の見方としては松平頼徳(よりのり)は水戸藩主名代として来ながら筑波勢と共に幕府追討軍と戦闘をして幕府に敵対する賊徒であるというように決めつけていた。また門閥派の市川三左衛門はこの機に乗じて筑波勢や大発勢を含めた天狗党激派、鎮派の全てを抹殺しようとして動いていた。

 頼徳はそのような相手の考えを少しも知らず、門閥派の攻撃によって心ならずも応戦したが、幕府に敵対する気持ちは毛頭無かったので、幕府軍の軍監である戸田という目付の仲介により幕営に降り苦衷を訴えようと決意し、武田耕雲斎らの反対を押し切って9月26日に30余名の部下と共に夏海(大洗町)にあった幕営に赴いた。

 田沼は報告を受けると直ちに水戸城に招致し、弁明も許さず公儀に敵対した者として10月5日に切腹させた。36才だった。辞世の句は「思ひきや 野田の案山子の竹の弓 引きもはなたで 朽果てむとは」である。30余名の部下は斬首され、宍戸藩も取り潰される悲運になった。

 水戸藩主慶篤の名代として水戸に向かった時は、この様な結果になるとは思いもよらず、心中いかばかりだったと思うと同情を禁じ得ないが、思えば平和裏の水戸城への入城が門閥派に遮られた時点で、自分の置かれている立場と門閥派の敵意や反乱を討伐しようと云う幕府追討軍の立場を良く認識し、行動していれば違った結果になったのではないだろうか。

 更に門閥派と幕府追討軍の両者と戦った後では、もう決戦しかないと覚悟して行動すべきところ、現実を受け入れられずに赤心を披歴すれば何とかなるという、自分が納得できる論理を信じで行動したことが悲劇につながっ  た。そしてその様な全体が見えずに自分たちの論理だけで行動をしたことは天狗党の乱全体にも言えるのかもしれない。


注) 写真をクリックすると大きくなります。



     前ページ