イバイチの幕末の水戸(7)
[ 天狗党の乱(元治甲子の変)その6 ]
H23-9-25作成
2−10 天狗勢の西上(2)
武田耕雲斎率いる天狗党は、揖斐(いび)宿(岐阜県揖斐川町)に到着し、ここで今後の京都へのルートについて検討した。ルートは3つあり、まず中山道に南下する道と、次に揖斐川を遡り琵琶湖の東岸に行く道がある。しかし両者とも大垣、彦根の強力な藩兵が待ち構えている。そのため戦いを避けたい耕雲斎は残る一つの道、根尾川を遡り越前、若狭を経て京に至るルートを選択した。
根尾川の上流の根尾谷と呼ばれる水鳥(みどり)地区には明治24年(1891)の濃尾地震という死者7200余名を出した直下型地震の震源地で、その時出来た根尾谷断層がある。またその付近にある日本3大桜の一つである根尾谷薄墨桜が有名である。
天狗党が選択した道は山間の険路が続き、特にクラミという大難所は馬が通れないほどの断崖を通り、さらに蠅帽子(はえぼし)峠という冬になると雪に閉ざされて通れる者は居ないといわれる困難な峠越えの道だった。現在は国道157号線が温見峠を通って岐阜県本巣市から福井県大野市に通じているが、この道でさえも冬季は閉鎖され通行できない。この道は越濃街道といわれ、以前は根尾谷の最後の集落である大河原から右手に折れ、蠅帽子峠を越える道だった。
天狗党が向かった時は幸い雪が少なかったので運よく越えられたが、その後越前に入った時から毎日雪が降り続いた。吹雪の中を大野藩の間道を通り、大雪に阻まれながら何とか北国街道の今庄宿にたどり着いたのは陰暦12月9日、陽暦の1月6日だった。翌日は遅れていた後続隊を待ち、陰暦12月11日に豪雪の中、木の芽峠の難所を通り新保宿(敦賀市)に到着した。(図は下仁田町大塚政義氏作成の「天狗党行軍経路略図」)
天狗党はそこで始めて前方の葉原宿(敦賀市)に加賀藩兵1,000余名が陣を固めて布陣しており、その後ろに万余の討伐隊がいるのを知った。またその後の加賀藩士永原甚七郎らとの交渉により、拠り所にしていた一橋慶喜が天狗党討伐軍の総督として琵琶湖北岸の海津(滋賀県高島市)に本営を構えていることも知った。
武田耕雲斎をはじめとする天狗党幹部は大いに驚き善後策を検討した。11月1日に水戸藩大子村を出立してから40日が過ぎており、その間下仁田、和田峠での合戦を経て、豪雪の蠅帽子峠、木の芽峠の難所を越えてきたのは慶喜を頼ってのことだったが、その慶喜は討伐軍の親玉になっているのである。
加賀藩からは降伏を勧められているが、この期に及んで降伏するのでは何のために苦難を乗り越えて来たのか、戦あるのみであるとの意見が多く出た。しかし最後に武田耕雲斎が「主君にも等しい一橋公に弓引くことは出来ない。投降して一橋公に全てをお任せするのがわれらの道である」(吉村昭著「天狗騒乱」より)。と発言したことにより、各自やり場のない想いを胸に抱きながらも陰暦12月19日、加賀藩に投降することが決まった。
投降した総人数は途中離脱したり戦死したりした人数があるので水戸藩大子村を出立した時1,00余名だった総人数は823名に減少していた。
武田耕雲斎らは慶喜に期待していたのだが、慶喜は幕府追討軍総括の田沼玄番頭意尊(げんばのかみおきたか)にすべてを任せてしまった。そのために加賀藩など世間が危惧した通り、前例のない352名の斬首という過酷な断罪になった。他には遠島137名、人足は追放187名、農民は水戸藩渡し130名などである。
天狗党の幹部武田、山国、田丸、藤田の4名の首桶は水戸藩に送られ、門閥派の手によって4日間梟首され、また捕えられていた家族の処刑も行われた。また水戸藩渡しの農民130名も放免されずに牢に入れられ、牢内で死亡するものが多かった。これらの過酷な処置が門閥派に対する怒りを深く沈潜させ、明治初めの弘道館戦争の一因にもなったのである。 (写真は水戸藩赤沼牢屋敷跡と由来記)
慶喜は後世「百才ありて一誠なし」と評されたように、この天狗争乱では朝廷から「降伏した折には相当の取りはからいをするように」と寛大な処置をほのめかされていたにもかかわらず自分の保身のため、武田耕雲斎以下の多くの人材を見殺しにしたのである。
慶喜はその後の鳥羽伏見の戦いでも勝手に逃げ帰り、会津の松平容保が身代わりになった形で朝敵として攻められるのを傍観していたことも重なり、信義よりもまず自己保身を最優先させる人物の印象が強い。そのような人物を頼らざるを得なかった武田耕雲斎以下の天狗党員たちには全く気の毒としか言いようのない結末になってしまった。
明治になり名誉回復がなされ、敦賀の有志により気比ノ松原の近くにある処刑場跡に「水戸烈士追悼之碑」が建てられ、武田耕雲斉のブロンズ像と352名の墓石が設置された。墓に行く参道の両側には歴代の茨城県知事、県会議長、水戸市をはじめとする関係市町村長などからの献樹が沢山植えられている。
自分も平成18年(2006)秋、奥の細道を巡る旅の途中立ち寄り、雨のそぼ降るなか茨城県民の一人として往時を偲び、志が果たせず無念な最期を遂げた多くの水戸烈士の冥福を祈った。(写真は水戸烈士追悼之碑、武田耕雲斉像、水戸烈士の墓石)
道路を挟んだ松原神社は明治7年に水戸の根本弥七郎という人が発起人になって天狗勢411名(途上での戦死者、戦病死者を含む)を祀って建てられたもので、境内には当時16棟あったニシン倉が水戸烈士記念館として1棟だけ残されている。(写真は松原神社と水戸烈士記念館)
また茨城県水戸市谷中の常磐共有墓地に隣接して建立された回天神社には、この「天狗党の乱」の稿の冒頭に記したように水戸藩の勤皇殉難志士1,785名の霊が祀られているが、昭和32年(1957)に敦賀からニシン倉1棟が移築され、回天館として天狗党資料の展示を行っている。(写真は回天神社と回天館)
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