「新・地図のない旅U」
五木 寛之
平凡社
2023年8月発行
「新・地図のない旅U」には、今なぜ「大河の一滴」かという章がある。先日、ある出版社から電話があった。
以前に出した本を再刊するのでよろしく、という連絡である。「大河の一滴」という雑文集で、平成十年の春に出版された本だ。
作家にとっていったん世に出た本が繰り返し刊行されることは大きな喜びだ。それにかなりの年月を経て、作者自身も忘れかけているような古い本が重版されるのは何よりもうれしい。
まして二十年以上も前に出版されたされたものが今になって世に出るというのはめったにない事なのである。「それにしてもあんな昔の本を何で今頃」と遠慮しながら聞くと「さあ何となく、そういうことになりまして」と要領を得ない返事である。しかしこちらが心配することではないので、どうぞよろしく、と言って電話を切った。
その本におさめた文章の中で、私が勝手な紹介をしたのは古代中国の伝説だった。戦国時代のその国に屈原という人がいた。大した才人で王の側近として活躍するが、ライバルに讒訴されて失脚する。
彼の手腕とあまりにも一徹な正義感が周囲の反発を買ったらしい。下野して放浪中、よろめきながら大河のほとりにたどり着いた屈原が天を仰いで濁世を嘆き、を嘆き憤っていると一人の魚師が舟を寄せてきて、身分の高い方のようですが、どうなさいました、と聞く。そこでのやり取りが私には忘れ難いものだった。困難な時代には、いつもこの話を思い出して自分を励ましたものである。と述べている。
この「大河の一滴」という本は小生も購入して読んだのでよく覚えている。また茨城県水戸市の近代美術館で、横山大観の描いた「屈原」を見ているので、より印象深く思えるのである、また五木寛之は。21頁に亘る二人のその内容を記していないのでそれも記しておきたい。
【大河の一滴】に記された文章
滄浪の水が濁るとき「屈原の怒りと漁師の歌声」
むかしきいた話である。
古代の中原に屈原という人がいた。彼は乱世の中で国と民を憂い、さまざまに力を尽くしたが、それを快く思わぬ連中に讒訴されて国を追放され、辺地を流浪する身となった。屈原の優れた手腕と、一徹な正義感、そしてあまりにも清廉潔白に身を持そうとする生き方が、周囲の反発を買ったものと思われる。
長い流浪の生活に疲れ、裏切られた志に絶望した屈原はよろめきながら滄浪という大きな川のほとりにたどり着く。彼が天を仰いで濁世を憤る言葉を天に吐きながら一人嘆いていると一人の魚師が船を寄せて来て、身分の高い方のようだがどうなさいましたと尋ねる。 そこで屈原は答えた。今世間は、挙げてみなすべて濁り切っている濁世の極みだ、その中でこれまで自分は一人醒めているのだ。だからこそ私はこの様な目に遭って官を追われ、無念の日々を送っているのだ、と。それを聞いた魚師は頷きながら再び屈原に尋ねる。それを聞いた魚師は、頷きながら再び屈原に尋ねる。それを聞いた魚師は頷きながら再び屈原に尋ねる。確かにそうかもしれません。しかしあなたは、そのような濁世に一人高く己を守って生きる以外の道は、まったくお考えにならなかったのですか。屈原は断固として答えた。潔白なこの身に世俗の汚れたちりを受けるくらいなら、この水の流れに身を投じて魚のえさになる方がましだ。それが私の生き方なのだ、と。すると魚師は傘かに微笑み、小舟の船端を叩きつつ歌いながら水の上を去って行った。その魚師の歌は次のように語り伝えられている。
滄浪の水澄まば
以て吾が嬰(冠の紐)を洗うべし
滄浪の水濁らば
以ってわが足を洗うべし
そして魚師は二度と振り返ることなく、流れを下って遠く消えて行ってしまうのである。
この屈原と辺地の一魚師のやりとりは、様々な説話として中國に語り継がれてきた。
屈原のような人は、今でも少なくない。有能で、理想家肌でそして真っ直ぐ正直に生きようとする。そういう人にとってこの世の濁世は真実耐えがたいものだろうと思う。屈原は見事な人物である。しかし、名もない魚師のふてぶてしい言葉にもこの世に生きるものの或る真実があるのではないか。
汚れて濁った水であっても自分泥だらけの足を洗うには十分ではないのか。大河の水は、時に澄み、時に濁る。いや濁っている方が普通なのかもしれない。.そのことをただ怒ったり嘆いたりして日を送るよりも何か少しでもできることをするしかないのではあるまいか。私は密かに自分の汚れた足をさすりながらそう考えたりするのである。