イバイチの奥の細道漫遊紀行

[ 宮城野 ]

H21-9-27作成  

 笠嶋の実方の墓をよそながら眺やって過ぎて行った芭蕉は 「名取川を渡て仙臺に入。あやめふく日也。旅宿をもとめて、四、五日逗留す。」 と記している。旧暦5月5日は端午の節句で、あやめを屋根に飾る日だが芭蕉はその前日に仙台に到着している。
 名取川も歌枕の地で古歌が多くある。 「名取川 瀬々のうもれ木あらはれば いかにせむとか逢見そめけむ」 読み人知らず 古今集、 「みちのくに ありと云ふなる名取川 なき名とりては苦るしかりけり」 壬生忠岑  古今集、 「なとり川 梁瀬の浪もさはぐなり もみじやいとどよりてせくらむ」 源 重之 新古今集、などである。
 仙台では画工加右衛門という仙台の俳人大淀三千風の高弟を紹介されて名所を案内してもらった。曽良旅日記によれば6日に亀ヶ岡八幡。7日に仙台東照宮、榴ヶ岡(つつじがおか)天満宮、国分寺跡の木下薬師堂を巡り、翌8日に仙台を発っている。

 芭蕉の足跡を辿ろうとまず榴ヶ岡天満宮に行った。ここは榴岡公園の手前の分かり難い場所にあったが、周囲の喧騒から離れた静かなこぢんまりとした神社だった。ここには芭蕉をはじめとする多くの句碑や歌碑がある。芭蕉の句碑は五十回忌追善碑として蕉門十哲のひとりである蓮二(支考)という俳人の十三回忌追善と共に寛保3年に建之されたもので、芭蕉が北陸路で詠んだ 「あかあかと 日はつれなくも 秋の風」 の句が蓮二(支考)の 「十三夜の 月見やそらに かへり花」 の句と一緒に刻まれている。

 次に陸奥国分寺跡がある木ノ下薬師寺に向かった。持参した「奥の細道の旅ハンドブック」に判り易い地図があったので迷わずに行けた。ここには奈良時代に創建された陸奥国分寺があったが、文治5年(1189年)に源頼朝が奥州侵攻をした時に焼失した。その後伊達政宗が慶長12年(1607年)に薬師堂(国重文),仁王門,鐘楼などの現存する建物を建立し、それを含めて約3万坪の境内が国指定の史跡になっている。
 この国分寺は真言宗智山派の寺院として現在も存続し、護国山国分寺と称している。本坊は少し離れた所にコンクリート造りで建てられており、近くに多宝塔もある。

 曽良は歌枕についての覚書きを残したが、宮城野はその中で  「宮城野 仙台ノ東ノ方、木ノ下薬師堂ノ辺ナリ。惣テ仙台ノ町モ宮城野ノ内也。」 と記している。「おくのほそ道」には 「宮城野の萩茂りあひて、秋の景色思ひやらるゝ」 と記されているが、芭蕉は辺り一面に群生する景観を見て、古歌に見る「宮城野」や「萩」に深く思いを寄せたのだろう。
 宮城野を詠んだ歌には次のものがある。 「あはれいかに 草葉の露のこぼるらむ 秋風立ちぬ宮城野の原」 西行法師  「宮木野の 本荒の小萩露をおもみ 風をまつごと君をこそ待て」 古今和歌集よみひとしらず。  「宮城野の 露吹きむすぶ風の音に 小萩がもとを思ひこそやれ」 源氏物語 「宮城野の 萩や牡鹿の妻ならむ 花咲きしより声の色なる」 藤原基俊  「さまざまに こころぞとまる宮城野の 花のいろいろ虫の声々」 千載集 などである。

 「おくのほそ道」は更に 「玉田、よこ野、つゝじが岡はあせび咲ころ也。日影ももらぬ松の林に入て、爰(ここ)を木の下と云とぞ。昔もかく露ふかければこそ、『みさぶらひみかさ』とはよみたれ。」と続けている。これは、「取つなげ 玉田よこのゝはなれ駒 つゝじが岡にあせみ花さく」 という俊成の歌。及び 「みさぶらひ みかさと申せみゆき(みやぎ)のゝ 木の下露は雨にまされり」 という古今集の大歌所御歌を指しており、それから木ノ下という地名が出来たと云われている。

 芭蕉がすらすらと 「おくのほそ道」 に記している文の裏には、この様な古今の和歌、物語、能狂言などの教養が積み重ねられているのである。
 芭蕉の句碑は木ノ下薬師寺境内にある準胝(じゅんてい)観音堂近くの心字ヶ池(現在は水を張っていない)畔にある。天明2年(1782年)に官鼠という俳人が建てたもので、仙台を立去るときに詠んだ 「あやめ草 足に結ん 草鞋の緒」 の句が彫ってある。芭蕉句碑の脇には仙台俳壇の第一人者で芭蕉とも交流のあった大淀三千風の供養碑が並んでいる。

 芭蕉は仙台で当てにしていた橋本善右衛門という人には病気ということで逢ってもらえず、面識のある大淀三千風は旅行中でこれまた逢えず、三千風の弟子の加之(画工加右衛門)に案内をしてもらっている。芭蕉は仙台に4日も滞在したが陸奥一の都会であるのに俳諧の関係者にも会わず、俳句は去り際に1つ作っただけで、あとは毎日あちこち歩き廻っており芭蕉隠密説がささやかれる一因になっている。しかし嵐山光三郎の「芭蕉紀行」によれば曽良が隠密だろうと推測している。

 いづれにせよ芭蕉は忍者が輩出した伊賀上野の出身であり、江戸でも小役人として水道工事監督の仕事をしていた時期があったが、実際には諜報活動をしていたのではないかと推測されている。また時代は元禄で将軍綱吉と水戸光圀との確執が有名だが、その光国と東北の雄である仙台藩とは気脈を通じているのではないかとの噂があり、それを確かめるには諸国を訪ねても怪しまれない俳諧師が適役だということからの話で、奥の細道関連の本を調べていているうちに芭蕉を忍者とした小説を5冊も見付けた。
 (H14-5-6訪)

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注2) 青字は「おくのほそ道」にある句です。
注3) 緑字は「おくのほそ道」の文章です。



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