　　「世界インフレの謎」
　　　　そして日本だけが直面する危機とは？

　　　　　　　　　　　　　渡辺　努
　　
　　　講談社現代新書　
　　　　　　　　　　　２０２２年１０月発行

新型コロナが、ワクチンなどにより終息の方向に向かっている現在、世界的にインフレが発生し、物価が軒並み８％から９％もの物価上昇があるということはどうしたことか。石油が上がり、ロシアのウクライナ侵攻により低開発国に食料が供給できなくなったためか。また日本では為替レートを上げないため円安が進み、輸入するものがどんどん値上がりするばかりではないか。などの不安材料が多く、今後どうなるのか不安ばかり大きくなってしまう。そんな昨今、新聞広告で見たのがこの本である。
　筆者は１９５９年生まれ、東京大学大学院経済学研究科教授、ハーバード大学大学院博士課程修了、専攻はマクロ経済学、国際金融など、という人物である。
　内容は次の五つの章に分かれているので、それに従って説明する。

　第一章　なぜ世界はインフレになったのか
　第二章　ウイルスはいかにして世界経済と経済学者を翻弄したか
　第三章　後遺症としての世界インフレ
　第四章　日本だけが苦しむ「２つの病」
　第五章　世界はインフレとどう戦うのか（省略）

第一章　なぜ世界はインフレになったのか

　２００８年のリーマンショック以来世界は物価があまり上がらない低インフレ化した。
　その原因①はグローバリゼーションで企業は少しでも安く生産するため世界中に網を張り巡らすようになった。
　原因②は少子高齢化の進行により、将来のために現在の消費を減らそうとするようになってきた、
　原因③.は技術革新の頭打ちと生産性の伸びの頭打ちだということであり、２０００年頃からは世界経済が直面する課題は直面する低インフレであり、その先に待ち構えている日本型のデフレであるというのが世界経済学者などの共通認識だったという。

　ロシアのウクライナ侵攻がインフレーションの大きな理由だとする見方は広く受け入れられているが、それは直感的に分かりやすい説明であり、西側世界全体で使える原油の量が大きく減り、それに伴って原油価格が急上昇したことや、小麦価格が上昇したのは欧州の穀倉地帯といわれるウクライナからの輸出が戦争によって滞ったことが影響していると言われているが、これらはインフレを生じさせた理由の一端ではあるにしても、最大の理由ではない。なぜなら米国や欧州のインフレ率の上昇は、は２０２１年春から始まっていたからで、それは数値で証明されているという。
　それでは何が原因かというと、２０２０年初頭の新型コロナウイルスによって社会活動は急速に停滞し、２０２０年３月までに世界経済は急速な景気後退を迎えた。この当時、中央銀行の政策担当者たちは景気後退が続く事によって低インフレの傾向がさらにひどくなることを懸念していた。
　しかしパンデミックはそれとはまったく異なる形で経済システムに影響を及ぼした。２１世紀になって急速に発展したグローバリゼーションによって構築された世界の物流ネットワークが寸断されてしまったのである。
　グローバル企業はそれぞれの工程で、精度と納期、費用の最適化を図るために生産拠点を世界中に持っており、サプライチェーンと呼ばれる供給網があるが、新型コロナは世界の生産設備や物流拠点といった人が「密」になる場所を直撃し、グローバルな供給網を寸断させた。

　そのように物の供給網が寸断され、各地で様々な商品が品薄になると価格の高騰につながっていく。
　すでに過去のものであると言わんばかりに忘却していたインフレが世界が無防備になった瞬間に半世紀ぶりに襲い掛かってきたのである。

第二章　ウイルスはいかにして世界経済と経済学者を翻弄したか

　しかし２０２０年は世界がパンデミックによって大きな影響を受けたが２０２２年はワクチンも行き渡ったし、世界では経済再開が進み始めており、経済学者は感染状況が落ち着けば速やかに経済再開がおこなわれると考えていた。

　なぜなら経済活動が停滞したといっても生産体制は無傷だったからである。生産を支えるのは「資本」「労働」「技術」の３つの要素であり、パンデミックの前後で、資本・労働・技術という経済の生産を支える基本的な条件は大きく変わっていないので、経済学者たちは巣ごもりの終了と共に世界経済は元の状況に速やかに戻ると考えたのである。

　しかしながらワクチンが行き渡り、感染状況も落ち着いてきてからもインフレ率は落ち着きそうもない。それは経済全体の需要が供給を大きく上回っている不均衡状態が続いていることによるものである。それに対して米欧の中央銀行は利上げにより、供給を減らし需要と供給をバランスさせようとする縮小均衡による対策を進めているのである。

第三章　後遺症としての世界インフレ

　この本の筆者は２０２０年に「スペイン風邪と同じくコロナも供給ショックだとすれば物価は上がるはずだ。現時点で表出しているのは、サ－ビス業の需要ショックとそれに伴う物価下落だ。しかし近い将来、モノの企業への供給ショックが顕在化し、物価が反転上昇する可能性がある。」と言っていた。

　インフレ顕在化の第１の理由は、消費者の行動変容である。新型コロナによるパンデミックが始まった当初、人との接触が不可避だったサービス産業から消費者が一斉に遠ざかった。レストランや宿泊施設、商業施設、フィットネスクラブなどの施設から人影が消えるという現象が世界中のあちこちで起きた。ステイホームに入った人たちは消費の対象をサービスからモノへとシフトさせて行った。レストランやダイニングバーなどが休業に入ると、自炊の人が増え、スーパーマーケットやネットショップなどの売り上げが増えた。注目すべきはそうした動きが一過性ではなく経済再開が本格化して以降もサービス産業は以前の水準に戻っていない。
　第２の理由は労働者の行動変容で、パンデミックを機に退職を早めるケースや離職したまま仕事に復帰しないというケースが米国や英国で数多く見られるようになった。労働者が労働を供給しなくなるというのは供給ショックの典型例である。
　第３の理由は企業の行動変容で、パンデミックはこの数十年間で企業が世界中に張りめぐらせたサプライチェーンを方々でズタズタにした。
工場や港湾施設の操業ストップしてしまうとグローバル企業がアジアをつないで構築した供給網が、その一点で断ち切られてしまう。

　これらの行動変容がこれまでのトレンドを大きく変える形で起こっている。消費者の行動変容はサービスの消費からモノの消費に変化し、労働者の行動変容は非労働力人口の増加であり、企業の生産拠点を母国または母国に近い場所に移す動きに繋がっていくものである。そのような長期トレンドが突然に同期する形で変化が生まれたのかもしれない。ということは「新たなる価格体系」への移行が始まったのである。

　新たなる価格体系への移動は時間はかかるがいずれは完了し、インフレは止まるがそれが何時になるのかは、まだ分からない。

第四章　日本だけが苦しむデフレという慢性病と急性インフレの「２つの病」

　現在の欧米では.急性インフレ対策として各中央銀行は金利を引き上げることで対応しておりアメリFRB政策金利は２０２２年３月の０．２５％以来４月０．５％、５月１．００％、６月１．７５％、７月２．５％、９月３．２５％、１０月３．２５％、１１月４％と急増しているのは御承知の通りだが、日本では現在の金融緩和政策を続けるとしている。

　その理由は日本のインフレ率はIMFが２０２２年４月にまとめた加盟国１９２加盟国の最下位で０．９８４と１％にも満たないし、韓国の３．９５％寄りも３％近く下回っているからである。

　しかしエネルギーと穀物を多く輸入に頼っている日本の輸入価格のインフレ率は約５０％に上がっており、それを「急性インフレ」と呼ぶが、それが国内価格に転嫁されていないということである。なぜなら日常的に購入するモノ・サービスのうち、約４割は１９９０年ごろから前年と同じ値札をつけているからである。それが今なお続いており、これを「慢性デフレ」と呼び輸入価格が上がったとしても、約４割の品目はゼロ％であり、全体的な転嫁率もゼロであり、全体の転嫁率も低いのである。

　なぜそのようにになったのか、１９９７年に山一證券の破綻を機に、大手の金融機関が次々に経営難に陥り、金融危機によって雇用が確保できるかどうかという心配に駆られた人々は生活を切り詰める様になった。当然のことながら消費者は価格に敏感になり、企業は値上げなどを考えることすら出来なくなり、賃金も凍結された。

　しかし２０００年代には金融機関も安定を取り戻し、景気も持ち直したが、それでも価格と賃金は横ばいのままだった。そしてその状態のまま今日に至っている。

　それは何故なのだろうか？この本の筆者は考え、価格の凍結の根本的な原因は「消費者のインフレ予測が低すぎる」ことにあるというのである。賃金だけが横這いで、価格が右肩上がりを続けたとすれば消費者は生活が成り立たない、また企業は賃金が右肩上がりで価格が横這いでは経営が成り立たず、価格も賃金も同時に横這いが両者の「落としどころ」になったというのである。

しかし、２０２１年に海外で始まったインフレが日本に流入したことで、日本の消費者のインフレ予想の変化が.現れてきた。その一つは今度の値上げが、ガソリンなどのエネルギー関連と食品に集中していることである。日本の消費者は生活に不可欠の品目であるであるエネルギーと食品の価格を特に重視する傾向にあり、あさらに欧米での厳しいインフレの進行が日本でも日々報道されており、コロナによるパンデミックも含めてインフレによる値上げはやむを得ないと思う様になってきた事が各種統計から見られるようになってきたというのである。

　しかし越えなければならない山が、もう一つある。消費者は価格が動かないことを前提に、価格据え置きを受け入れる。企業は賃金が動かないことを前提に価格据え置きを受け入れるという状況だったのが、インフレ予想の上昇を起点として、消費者が価格の上昇を止むを得ざるものとして受け止め、それに呼応して企業が価格への転嫁を始めている事でもあり、価格も賃金も上昇するということである。

　しかし、２０２２年5月に自分の給与は１年先にどう変わるかを調べた結果、欧米各国は「給与が上がる」と「少し上がる」という回答の合計は４０％を超えたが、日本では１０％だけで、「変わらない」.という回答が６５％を占めていた。また給与が「少し下がると」いう回答と「下がる」の回答が２０％を超えていた。日本の賃金環境が欧米との対比において極めて厳しい状況にあることが分かる。

　この凍り付いた賃金という最後のハードルを何とかして乗り越え慢性デフレからの脱却を図り、欧米先進国に合わせた国情に戻れるかどうかどうかが、いま我々に突き付けられている大きな選択なのである。

　つまり、日本でこのままインフレが進行し、賃金に変化が現れない場合は実質賃金が低下し、購買力が落ちるので、消費の量を減らしGDPが落ちるという景気が悪化するスタグフレーションに陥る危険がある。一方、凍り付いた賃金を乗り越えて慢性デフレからの脱却を果たし、欧米諸国と同じレベルに戻れるのか、どうかが、日本に突き付けられているということなのである。

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（この項終わり）