瑞巌寺
松島五大堂から観光桟橋の前を通り瑞巖寺に行く。総門を潜ると杉の巨木が聳える参道が続き
,厳粛な気持ちになる。参道の右手には仏像の彫刻で埋められた洞窟遺跡群があり、その手前に西国三十三観音が並んでいて、曇天の薄暗い光の中で神秘的な空気が漂う。
瑞巖寺の正式名称は「松島青龍山瑞巖円福禅寺」という臨済宗の禅寺であり、平安時代に慈覚大師円仁が創建し天台宗延福寺と称したといわれている。その後鎌倉時代に法身(ほっしん、俗名真壁平四郎)禅師が臨済宗円福寺として開山したが、更に曲折を経て伊達政宗が現在に残る大伽藍を完成させ、伊達家の菩提寺にしたのである。(写真は参道)
政宗は瑞巖寺の住職に雲居(うんご)禅師を3度にわたって招聘したが、雲居はなかなか応じず、その間に政宗は亡くなってしまった。雲居禅師は政宗の死後漸く瑞巖寺に入り、寺を隆盛に導いて中興開山といわれるようになった。芭蕉は 「
十一日、瑞巖寺に詣。当寺三十二世の昔、真壁の平四郎出家して、入唐帰朝の後開山す。其後に雲居禅師の徳化に依て、七堂甍改りて、金壁荘厳光を輝し、佛土成就の大伽藍とはなれりける。彼見佛聖の寺はいづくにやとしたはる。」 と記している。
(写真は庫裏‐‐‐本堂と共に国宝)
真壁の平四郎(法身禅師)は茨城県明野町の生まれで、瑞巖寺開山の後茨城県真壁町伝正寺の前身である照明寺を開山している。見仏上人の見仏堂は雄島にあるが、上人は瑞巌寺の住持職に就くことはなかった。しかし上人の高僧としての名声は京にまで届き、鳥羽上皇から本尊や法器、松の苗木千本が下賜され、これにより雄島が「千松島」と呼ばれ、「御島」と表記されるようになったと云われている。雲居禅師も後年雄島に座禅堂を建て隠棲生活を送った。
中門を通り、本堂(方丈)に入ると絢爛豪華な障壁画が見られる。これは元和8年(1622年)に狩野派・長谷川派の有数の絵師によって211面にわたって画かれたものであり、芭蕉はそれを60〜70年後に見て「金壁荘厳光を輝し」と記したのである。現在は重要文化財に指定されているが、褪色した本物は青龍殿という宝物館に収蔵されており、本堂にあるのは昭和の末から平成7年にかけて復元模写されたもので、約300年前芭蕉が見たのと同じ金碧に輝く色彩の襖絵が見られる。(写真は中門)
この復元模写の中心になったのは日本画家の林功である。箱根の成川美術館でこの人の絵を見たことがあるが、その時NHKの「今日の料理」テキストの表紙を長年描いた人であると知った。鮮やかな色彩の絵が多かったのを思い出す。
本堂には藩主が出入した御成門(重文)と御成玄関(国宝)があり、堂々とした佇まいである。御成玄関には左甚五郎の作といわれる欄間彫刻がある。付近の庭園は一面の苔に蔽われ、雨上がりの曇天にその緑がしっとりとよく似合っていた。芭蕉の碑は隣にある円通院に行く道筋にあり、「おくの細道」の松島の段が記されていた。(写真は芭蕉碑と奥の細道碑)
円通院、観瀾亭
瑞巖寺の西隣に円通院という寺院がある。ここは19才の若さで亡くなった伊達政宗の孫の光宗を祀ったという寺で、その霊廟である三慧殿には白馬に跨る光宗の像を祀った厨子があり、支倉常長が持ち帰ったバラが画かれているというので薔薇園が設けられていて、バラ寺とも言われるそうである。またここには江戸屋敷にあった小堀遠州作の庭が移設されており、折りからの雨に一面の苔やつつじなどの花が池の水に映えて美しく、鎌倉の小寺院を思わせる落ち着いた雰囲気が味わえた。(写真は円通院の庭園)
円通院から海辺の観瀾亭に行く。秀吉の伏見桃山城の茶室だったものの一部を伊達家が拝領し移築したという部屋で、抹茶を飲みながら緋毛氈の上から松島湾を眺めるのは甚だ気分が好い。ただ雨が降ったり止んだりの天気が残念である。晴れていればのんびりゆっくりと景観を楽しみたいところだ。(写真は観瀾亭内部)
芭蕉は金壁荘厳の瑞巖寺より見佛聖の寺の方に近親感を感じると記しているが、この見佛上人は雄島の段で述べたように、平安時代に雄島の見仏堂で法華経六万部を読誦したため鳥羽天皇から高徳を讃えられ、其の後も見仏堂の傍らに妙覚庵を結び12年間島で修行をした僧侶で、西行も上人を慕って訪れている。芭蕉の俳諧の道には絢爛豪華は似つかわしくないのだろう。
(H14-5-8訪)
注1) 写真をクリックすると大きくなります。
注2) 青字は「おくのほそ道」にある句です。
注3) 緑字は「おくのほそ道」の文章です。