イバイチの奥の細道漫遊紀行
[ 平泉 1 ]
義経堂
無量光院跡から少し北上した丘陵地に高館義経堂がある。丘上の高台から見渡せば眼下に北上川の流れがあり稲田を隔てて束稲(たばしね)連山が連なる景勝の地である。北上川の上流には右手に白鳥の柵,左手に衣川が見える。
高台の右側に芭蕉の 「夏草や 兵どもが 夢の跡」 の句と 「三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先(まず)高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。----」で始まるおくのほそ道,平泉の段の一節を記した碑がある。
左側の小径を更に登った丘の頂には仙台藩第四代藩主伊達綱村が建立(1683)した義経堂がある。義経が挙兵した頼朝の許に遥々奥州から馳せ参じ、黄瀬川で感激の対面をしたのは治承5年(1181)22才の時である。その後平家を滅ぼした義経が頼朝と不和になり奥州平泉に戻ったが、義経を庇護した三代秀衡が亡くなり、後を継いだ四代泰衡が頼朝の圧力に屈して、高館に住んでいた義経を急襲し自殺させた。文治5年(1189)義経31才の時である。。((写真は高館義経堂からの束稲山と高館義経堂の句碑)
この十年足らずの間の義経の栄枯盛衰を、芭蕉は 「偖(さて)も義臣すぐってこの城にこもり、功名一時の叢となる。『国破れて山河あり、城春にして草青みたり』と、笠打敷きて時のうつるまで泪を落し侍りぬ。」 とおくのほそ道に書き記し、その後に直ぐこの場所で詠んだ様に「夏草や----」の句と曽良の「卯の花に----」の句が続くのである。
しかし義経堂のある高館は見晴らしは良いが狭い台地であり、「夏草や----」の句から思い浮かぶ広々とした草の生い茂った古戦場の面影はまったく無い。遥かに衣川の柵の方向を眺めて、当時を思い浮かべた芭蕉の胸中に生じた想念なのだろうか。(写真は高館義経堂から衣川の柵、白鳥の柵の方向を臨む)
高館を降り、少し北上するとJR東北線の踏切を渡り中尊寺に行く道との岐点に、「卯の花清水」 と呼ばれる小さな湧き水がある。この高館周辺は昔から卯の花が沢山咲いていた所で、そこに湧く清水に土地の人が何時しか花の名を付けたという。
清水の湧く付近は小さな園地になっており、曾良の 「卯の花に 兼房見ゆる 白毛かな」 の句碑がある。兼房は、義経の北の方の乳人である増尾十郎兼房のことで、白髪を振り乱して奮戦し、義経の最後を見届けた後、館に火を放って壮絶な死を遂げたといわれている。(写真は卯の花清水と曽良の句碑) (H14-10-14訪)
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注2) 青字は「おくのほそ道」にある句です。
注3) 緑字は「おくのほそ道」の文章です。